研究会要旨

第19回総会・研究会 2019年7月20日 武蔵野美術大学鷹の台校舎

1.「“原三渓の美術”展と砂沢ビッキ没後30年展について」

 「原三溪の美術」(7月13日~9月1日:横浜美術館)の連携事業として、原三溪市民研究会によるパネル展示(8月3日~9月1日)が行われること、そして市民研究会の活動が紹介されました。その次に、砂澤ビッキ(前屋彫研会長の柳生不二男と秋山画廊以来の付き合いを持った)の没後30年展と関連イベント-札幌芸術の森美術館「砂澤ビッキ 風」(4月27日~6月30日)、本郷新記念札幌彫刻美術館「砂澤ビッキ 樹」(会期同じ)、札幌市民交流プラザSCARTSスタジオ「砂澤ビッキウィーク」(5月21日~5月25日)-の報告と、ビッキについての講演がなされました。

砂澤ビッキについてのいくつかのメモ 人間はなぜ彫刻を作るのか?―砂澤ビッキの作品が投げかける問い 藤嶋俊會 
○ビッキウィークとアーカイヴ
  砂澤ビッキといえば北海道で生まれ育ったある程度の年齢の人ならば大概、どんな作家でどんな作品を作っていたかは承知のことだろう。しかし本州で生まれ育った若い世代にとっては、作品を見たことも名前を聞いたこともないのではないかと思う。
 2019年の5月私がビッキウィークと名付けられたイベントに参加してみると、あたかも北海道全域にビッキ熱が蔓延しているような盛り上がりを感じた。没後30年、生きていたなら88歳、記念の事業が札幌市内の美術館や文学館、図書館、クリエイティブスタジオ(市民交流プラザ3階)などで開かれた。同じ市民交流プラザ2階の「SCARTS(スカーツ)スタジオ」では、内部の壁に、音威子府に定住して作品を制作する作家の写真を大判で展示しており、会期中いつでも見ることが出来る。またこの会場は「連続トーク」のときは椅子席にしてホールになる。「ビッキウィーク」の間は「関連映像上映」として7本の映像が上映された。つまりここのスタジオは、砂澤ビッキに関するあらゆる情報をアーカイヴとして市民に公開していた。7人のパネリストによる「連続トーク」もその一環で行われたのである。ここではビッキの彫刻が屋外彫刻調査保存研究会にとって問題になるところを取り上げてみよう。
 なお筆者が「ビッキウィーク」の「連続トーク」にパネラーの一員として参加したのは、1989(平成元)年の1月県民ホールギャラリーの3人展の会期中に砂澤ビッキが亡くなったとき企画者として立ち会ったからである。
○「オトイネップタワー物語」


 写真は砂澤ビッキが1980年9月音威子府駅前に建てた「音威子府タワー」である。高さ15メートルのトーテムポールである。雪を被ったタワーを見ると、1985年1月に県民ホールギャラリーで開催した「木の造形」展の作品集荷で雪積の日に行ったとき撮影したようである。その後2回目に行った時(1988)はタワーはなかった。危険な状態になって取り外されたという情報が入っていた。ところでこのタワーの原木の刈り出しから設置までの一部始終を記録したドキュメント映像が残っていたのである。
 そもそものタワー建立の経緯をまとめると、1978(昭和53)年砂澤ビッキ夫妻が音威子府村の廃校になった筬島小学校に引っ越しをすることになったときに、簡単に表札代わりになるものを作ろうとした。ところが話はどんどん発展して、駅前に村の何処からも見えるようなシンボルタワーを作ってほしいという要望が出た。
 少し長いが『砂澤ビッキ 風を彫った彫刻家』(札幌芸術の森美術館偏、マール社、2019.04)から引用する。「ビッキは村のコミュニティにも積極的に参加する、当時としては珍しい作家であった。1980年の《オトイネップタワー》の建立は象徴的だろう。音威子府駅前に立ったこの高さ15メートルにおよぶトーテムポール状の作品は、上から天然記念物のブッポウソウ、キツツキや車輪など鉄道、林業、商工会のシンボルマーク、過去・現在・未来を表わす3本の柱、下に乳牛、馬鈴薯、ビートが表現された。建立式には千人もの人々が集まり、村をあげてのお祭りへと発展した」と記している。当時村には国鉄職員の官舎が相当数あって、その人たちがみんな参加したのである。その時タワーを特別仕立ての台車に寝かせて引いてゆく行列の、その先頭にお洒落なジャケットに着飾ったビッキの得意満面の顔が映っているのを見て思わず、ここに本当の英雄がいるなと感動を覚えた。村のシンボルを村民と作家が一体になって建てようとするところに、人は何故彫刻を作るのかという問いに対する答えが丸ごと見えたように思った。タワーが屋外に設置された木彫であれば、いくら化粧を施しても、いずれ朽ちてゆく運命にあることは分かりきっている。永遠という観念は、自然とともに時間が経過する意味で言えるのであって、時間を止めて永遠を望むのは、自然に反することである。永遠は、アイヌの人にとっては、繰り返す自然の移り変わりの中で感じる観念である。
○「四つの風」を巡って:

 札幌芸術の森美術館の野外に、砂澤ビッキ作の「四つの風」という木彫作品が設置されている。これも正真正銘の木彫である。直系90㎝で高さが5.4mのアカエゾマツの柱が4本、1986年に設置された。この作品の取り扱いについて設置後15年が経過した2001年6月24日、展覧会「樹気―砂澤ビッキ展」が札幌芸術の森美術館で開催するのに合わせて、シンポジウム「砂澤ビッキ作《四つの風》の今後を考える」が開かれた。7月5日の「北海道新聞」は、「美術評論家らパネリスト4人のほか、会場の美術ファンやビッキさんと親交のあった関係者も活発に発言し、ビッキさんが投げ掛けた“難問”をどう解くか、発言を述べ合った」と報じる。その後美術館の方針が決まって、「最終的に当館は、今後も防腐剤の塗布など最低限のメンテナンスに留め、ビッキの望むとおり、作品が倒れてゆくことを受け入れることにした」(梅村尚幸「《四つの風》の保全とカメラシステムの導入―自然と交感し、思索する」『砂澤ビッキ 風を彫った彫刻家』)。つまり作者の意を汲んで、「風雪という鑿」が加わるままに任せることになった。

 私はたまたま3本の柱が倒れた現場をそれぞれ見る機会に立ち会うことが出来た。2010年8月に1本目、2011年7月2本目、2013年7月3本目と見てきたが、やはり最初の倒木現場を見た時の印象が強かった。それは倒れた樹の内部が、まるで動物の内臓のようにどろどろした状態であったからである。樹の外側は硬い皮膚のように見えるのに対してである。したがって樹が倒れる時は、誰も見ていないのだが、大きな音をたててどーんと倒れるのではなく、ぐずぐずと崩れるように倒れたのではないだろうかと想像している。2016年のカメラシステムの導入は、これまでの反省に立って倒壊の瞬間を映像で記録しようという、アーカイヴの精神で考えられたものである。

2.「藤沢における彫刻保守活動について」

 東海大学による地域連携事業の一環として藤沢市で実施された屋外彫刻保守活動について報告され、触覚にもとづくアウトリーチとしてユニバーサル・ミュージアムの実践が述べられました。(写真は『タウンニュース』藤沢版2019年6月14日号より)

彫刻を触る☆体験ツアー:アウトリーチとしての彫刻メンテナンス  篠原聰

2019年6月3日に江の島北緑地広場にて実施した「彫刻を触る☆体験ツアー」(藤沢市の事業名「彫刻ピカピカプロジェクト」)の実践事例と、ユニバーサル・ミュージアムの考え方を導入した新たなアウトリーチとしての彫刻メンテナンスの可能性について報告した。ユニバーサル・ミュージアムは視覚優位・視覚偏重の博物館・美術館の常識を改変する。それゆえ、ユニバーサル・ミュージアム研究は近代と真正面から対決する思想運動ともいえる。
 ミュージアムにおいて、ハコモノのなかで人が来るのを待つのではなく外にでて機能を果たす攻めのアウトリートや、ハコモノまで来たくても来るのが難しい利用弱者に手を差し伸べる務めのアウトリーチの重要性が指摘されて久しい。だが、アウトリーチで活用できる博物館資料はいまだに限定的で、資料としての保存を前提としない「消耗品」扱いの場合が多い。とりわけ美術館が収蔵する資料=作品は、モノ自体が脆弱であったり、市場的価値が高かったりすることもあり、博物館が収蔵する資料や標本などよりも、活用と保存のあり方が厳重に管理される傾向にある。他方、美術館のコレクションと同等のモノでありながらそれ以下の扱いを受けている屋外彫刻は(博物館の資料や標本よりも雑な扱いを受けている場合もあるが)博物館や美術館のコレクション同様、公共の財産であり、みんなの美術である。
 アウトリーチ活動において、美術館の所蔵作品をなかなか自由に使うことができないのであれば、屋外彫刻を活用しよう。学芸員がマンパワー不足で地域の屋外彫刻に目をかけ手をかける時間がないならば、大学が、学生や市民を巻き込み、美術館学芸員と一緒に屋外彫刻のメンテナンス活動をしよう。そうして私たちの活動は始まった。「彫刻を触る☆体験ツアー」は保存(メンテナンス)と活用(鑑賞)を兼ね備えた最強のプログラムである。みんなでミュージアムの外に出よう。そして、疲弊する美術館をミュージアムの外側から地域全体で支え、市民の「手」で、美術館の社会的使命の一端を実現しよう。「彫刻を触る☆体験ツアー」は、与えられる美術ではなく、市民が能動的に関与する下からの突き上げ、地域住民のための美術プログラムである。
 屋外彫刻は、雨が降ろうとも、風が吹こうとも動じず、ただひたすら表情を変えず、いつも「私たち」のそばに居る。触ろうと思えばいつでも触ることができる。観覧無料、触ることも可能で、アクセシビリティも常に保証されている。全国各地の屋外彫刻は、近い将来、ユニバーサル・ミュージアム(誰もが楽しめる博物館/感覚の多様性を尊重する美術館)の立派なコレクションと成り得るだろう。

3.「清水多嘉示資料展と国際カンファレンス、及び昆野恒作品の保存についての報告」
「清水多嘉示資料展-石膏原型の全てと戦後資料(第Ⅲ期)」(5月20日~6月16日:武蔵野美術大学美術館)と関連企画「国際カンファレンス:東アジアにおけるブールデル・インパクト」(6月7日~8日:同美術館ホール)について、及び昆野恒ご遺族から寄せられた作品の美術館寄託に関する情報とアトリエと敷地内屋外での保存状態の画像が報告されました。

清水多嘉示資料展(第Ⅲ期)-構築的彫刻思考の再解釈 黒川弘毅

 清水は生涯にわたる様々な資料(作品・文書・写真・印刷物)を残した。武蔵野美術大学彫刻学科は、2007年から遺族の協力のもとで資料の整理と研究を開始した。11年、「清水多嘉示資料展」を本大学美術館で2回に分けて開催した。第Ⅰ期展は幼年期~滞仏期28年まで、第Ⅱ期展は帰国~45年敗戦まで。今回、その後彫刻家として円熟期を迎えて没するまでの第Ⅲ期戦後資料と、パリで彫刻を学び始めた23年からの全石膏原型を展示した。
 第1展示室には、作品以外にも多岐にわたる戦後資料を展示した(写真上)。留学生を含む生徒たちの動向、私学における専門的美術教育の確立に向けた営為、国際交流を含む清水の広範な社会活動の実像を示した。Ⅰ~Ⅱ期展のアーカイヴ(20年代パリの日本人美術家の動向、日中~太平洋戦争までの「戦争美術」に関する記録を含む)もP.C.で公開した。第2展示室とアトリウムには、石膏を中心とする彫刻約250点を展示した(写真下)。留学先から持ち帰った数量では異例の滞仏作35点は注目を集めた。異なるサイズでの複製と、ポーズのバリエーションについてのスタディーを含む人体石膏群を系統的に展開して、第1展示室の二次資料と照合した。清水の「コンストラクション」=構築的な彫刻思考の再解釈を試み、彫刻研究での石膏の重要性をあらためて痛感した。

 また、関連企画「国際カンファレンス:東アジアにおけるブールデル・インパクト」を開催。日・韓・中・仏・米の研究者が参加した。清水や他の日本人彫刻家のパリ留学の意義と、彼らが学んだブールデルの彫刻思考とその教育実践が検証され、同時期の中国人留学生とブールデルの中国への伝播についても発表された。中国の常玉(サンユ)や清水に学んだ韓国の権鎮圭(クウォン・ジンギュ)を例に、極東地域の近代美術における人体表現が論じられ、さらに彫刻の記念碑性が議論された。
 展示とカンファレンスを通して、清水資料が日本に限らず東アジアの近現代美術史とその周辺領域で新しい研究課題の発見に資するとともに、美術史以外の分野にも豊富な材料を提供することが再認識された。

第18回総会・研究会 2018年7月22日 武蔵野美術大学鷹の台校舎

. 動画でみる屋外文化財への環境影響調査のはじまり  権上かおる


 屋調研前副会長の門倉武夫氏は、その上司の江本義理氏(よしみち・1925-92・門倉前副会長の上司で東京国立文化財研究所保存科学部長を務めた)と共に、文化財の環境影響に真っ向 から取り組んだ研究者達です。“真っ向から”の意味は、文化財への影響(材料影響)と汚染 物質の観測(環境モニタリング)、さらに影響予測(材料暴露試験)をお二人は行いました。 現在では、私の知る限りでは環境モニタリングまで行っている研究者を見出せません。
 なぜそうなったかは、現在の状況では、想像し難いと思いますが、大気汚染の激化です。戦後の混乱が収まり、最初は工場などで使用する重油のイオウ成分、やがてモータリゼーションの波がやってきて、自動車排ガスの影響が大きくなりました。
 これらを実感していただくために、昭和 30 年代後半の東京・上野公園の動画をご覧入れた いと考えました。このフィルムは、おそらく 1962-63(昭和 37,38)年に撮影された映画のニ ュース用で編集され、門倉さんがお持ちでした。1986 年、不忍池の水をいったん抜き、地下に 台東区立の地下駐車場計画が持ち上がり、これに反対する活動の中で、門倉さんがご提供くだ さいました。それを 2018(平成 30)年 4 月、江本義理さんの 27 回忌でご子息が、デジタル 化してくださいました。映りの悪いとこはありますが、元のフィルムの存在も今となっては不 明ですので、貴重な映像です。大気中のイオウ酸化物の計測や材料影響を上野公園で行ってい ます。門倉さんの入所早々の若いお姿も。上野公園も広々としています。常磐線の電化は 1963 (昭和 39)年だそうですが、公園に沿って煙を吐いて走る姿も映っています。
 動画は会員専用頁にアップしていただきました。ぜひご高覧下さい。 また、後半には、江本義理さんの文化財の大気汚染影響の講演(約 30 分)もついています。 これは 1991 年 11 月 3 日、今は平成館となってしまいましたが、国立博物館講堂で開催された 「私たちの文化財と環境」の主講演でした。
 最後に、今の上野公園も 1000 本オーダーの樹木が伐採され、環境が激変しています。この 現実も知っていただきたく、パワポにも加えました。
 また、現在の大気汚染と屋外彫刻の状況について、黒川弘毅さんとまとめてご報告したいと 考えています。今回は、大気汚染のはじまりを若い世代に伝えたく、発表の機会をいただきま した。ぜひ動画をご覧くださいね。(屋彫研 H.P.会員専用ページで見られます。)

2. 6 月 17 日(日)に平塚市美術館で開催された公開シンポジウム 「湘南ひらつか野外彫刻展のゆくえ 岐路に立つ彫刻」の報告

午前中は市役所周辺に設置されている作品を見学。中村ミナト作《REVOLVE》

公開シンポジウム報告 篠原 聰

 東海大学課程資格教育センターでは屋外彫刻調査保存研究会の協力を得て、6月 17 日(日) に平塚市美術館で、屋外彫刻の保存と活用に関する公開シンポジウム「湘南ひらつか野外彫刻展のゆくえ 岐路に立つ彫刻」を開催した。このシンポジウムは東海大学連合後援会研究助成金(地域連携部門)として採択された「市民や自治体と共働した地域文化資源(屋外彫刻)に 関する保存・活用の活性化事業」の一環として開催したものである。
 湘南キャンパスがある西湘地域では、1980 年代後半から 90 年代にかけて大規模な野外彫刻 展が開催されるなど文化活動が盛んであったが、近年は管理やメンテナンスが行き届いていな い作品が多く、保存と活用方法が問題視されていた。今回のシンポジウムは、大学や行政だけ ではなく、平塚市に設置されている野外彫刻の作者や市民を交えて、地域の文化資源である野 外彫刻の保存と活用について議論することを目的に企画したものであり、平塚市職員、市民ら 約 60 名が参加した。当日は午前中に参加者有志による平塚市役所周辺の野外彫刻の見学ツア ーを行い、午後のシンポジウムでは、はじめに篠原が趣旨説明と湘南キャンパス内に設置して いるブロンズ像のメンテナンスワークショップなど、これまでの取り組みについて紹介した。
 第1部では、屋外彫刻調査保存研究会会長の藤嶋俊會氏、平塚市美術館学芸員の勝山滋氏、 平塚市市民部文化・交流課課長の小菅正人氏、秦野市市民部専任参事の佐藤正男氏の4名が登 壇し、神奈川県における野外彫刻の歴史的背景や、93 年に開催された「湘南ひらつか野外彫刻 展」の当時の様子と、25 年経った現在の作品の状態などが報告された。また、本学と連携して 野外彫刻のメンテナンスを実施している秦野市の取り組みについて紹介した佐藤氏は、市民参 画による「彫刻のあるまちづくり」事業の概要を発表した。
 第2部のパネルディスカッションでは、野外彫刻展に出展された野外彫刻の作者8名が登壇 し、作品に込めた思いや、破損している部分の修繕についての要望が語られた。中でも、野外 彫刻展で作品「REVOLVE」が大賞となった中村ミナト氏は、「作品は作者の分身であり、何 年経っても気にかけています。移転や修繕など、折々に連絡していただきたい」と、市の職員 に向けて訴えかけた。また、参加者を交えた総合討論では、屋外彫刻調査保存研究会の高嶋直人氏が、山口県宇部市で学芸員・市民・彫刻家が連携して実施している彫刻の展示・メンテナ ンスの事例を紹介し、平塚市でも三者の連携によって作品の保存・活用を推進していこうと、 登壇者や市民から活発に意見が交わされた。
 シンポジウム開催後、小田原市からも問い合わせがあるなど、今回のシンポジウムで議論さ れた内容、すなわち野外彫刻等の保存と活用をめぐる問題が、各地の自治体等が抱えている今 日的な課題でもあることが改めて認識された。今後は近隣自治体、市民と連携し実行委員会を立ち上げ、改めて野外彫刻の保存と活用のあり方を模索し、その基本構想を提案したいと考え ている。具体的な活動としては、湘南キャンパス内で実施してきた彫刻メンテナンスの新展開 として、秦野市と協力して 12 月 8 日(土)に秦野駅前の彫刻メンテナンスを、市民とともに 実施する予定である。なお、地域連携誌『ちえん』の 10 月号に、秦野市職員、秦野市民を交 えた彫刻メンテナンスに関する記事が掲載されることとなった。また、「湘南ひらつか野外彫刻展のゆくえ 帰路に立つ彫刻」シンポジウムの記録報告書も今年度内刊行を目指して作成する予定である。

②シンポジウム発言要旨 藤嶋俊會
 80 年代後半から 90 年代にかけて神奈川県の西部、秦野市、小田原市、平塚市の 3 市で行わ れた県市共同主催の野外彫刻展については、2016 年 12 月 4 日(日)場所も同じ平塚市美術館のアトリエAで「かながわの野外彫刻地図―いたるところ彫刻あり」と題した発表で紹介した。そのときの報告がきっかけとなって、展覧会終了後平塚市内の公園などに設置された野外彫刻 のその後がどうなっているか、検証する必要が生じてきた。それは作品の一部に長期間の雨ざ らしによる劣化が生じていたことに気が付いたからである。場合によっては至急応急措置をし なければならないものもあった。
 しかし若い人たちにとっては、何故突然見たこともない野外彫刻を取り上げるのか、今一つピンとこなかったのではないだろうか、というわけで「野外彫刻とまちづくり―戦後彫刻の発展史」と「神奈川県・市共同の野外彫刻展」というタイトルでレジュメを作って報告した。し かもその動きの発端が神奈川県の鎌倉に 1951 年開館した県立近代美術館であったことから話 を始めることにした。近代美術館の館長であった土方定一は、彫刻は野外の自然の中に置くこ とが相応しいと考えていた。この土方の思想を形にしたのが 60 年代に宇部市や神戸市で実施 された野外彫刻展である。
 また 64年の東京オリンピックに合わせて真鶴半島の道無海岸では「世界近代彫刻日本シンポジウム」が行われ、60 年代後半には箱根に彫刻の森美術館が開館する。そして 70 年代、80年代になるとまちづくりと連動して野外彫刻が設置されるようにってくる。それが藤野町(現 相模原市緑区藤野)を舞台に繰り広げられた環境彫刻の設置であり、上述の県市共同主催の野 外彫刻展の考え方である。いわば神奈川県の野外彫刻の動きは日本の縮図でもあった。
 湘南ひらつか野外彫刻展が開かれてから 25 年、つまり彫刻作品は市内各地の公園に散らば って設置されてから 4 分の 1 世紀が経過したことになる。筆者は平塚市美術館で展覧会を見終わって帰る時、時々文化公園や市役所を突っ切って駅に向かう事がある。その時設置されてい る彫刻の傍を通りながら確認するのが常だった。特に市役所が新しく建替えられることになっ たとき、グランプリ受賞作品「REVOLVE」(中村ミナト作)の行く末は気になっていた。建て替えの工事は大分長期になっていたように感じたので、彫刻は再設置されるのかどうか一抹 の不安も横切った。前の設置場所があまりにも理想的だったからでもある。
 今回のシンポジウムでは、何故市内のあちらこちらに野外彫刻の力作があるのか、そのいきさつを知ってもらうと同時に、その後の問題、すなわち彫刻設置後のメンテナンスについて大分、札幌、仙台などの事例を付け加えて紹介した。

③「中村ミナト氏のメッセージ」の紹介 事務局(黒川)
1993 年の「湘南ひらつか野外彫刻展」で設置された作品は、作家の一人戸田裕介さんが述べ たように、いずれもその時期の重要作品であり、それぞれの作家にとって「代表作」の一つと も言うべきものである。作家たちの思いは、中村ミナトさんが公開シンポジウムで読み上げた次の文章に表れているので紹介したい。

「作者の立場で申し上げます。
 その当時 神田にありましたときわ画廊で彫刻の発表を続けていました。そこで湘南ひらつか野外彫刻展の募集を知り、応募しました。マケット審査—実制作—賞選考と云う図式のコンペティションで、1/10 のマケットを提出しました。幸運にも入選し実制作に入ることになりま したが、高さ 36cmの模型を3m60cmの実作品へと、10 倍に拡大するにはそのギャップが大 きく、内包する空間をもって空間を截り外への広がりを見せたい、との思いがありましたので、 1/10、1/5、1/3 と段階を追ってマケットを大きくし、細部まで自分で納得した上で実制作に入りました。50 個以上のパーツをボルトで繋ぎ、形にした作品でした。友人の大きなアトリエを借り、そして力も借り制作にかかりました。また、構造計算を建築の専門家に依頼し、倒壊事故の無いように念には念をいれ、地中にアングルを組みその上に作品を固定しました。平塚市総合公園にクレーンを使い組み上げると云う大掛かりな作業でした。
 平塚市総合公園での展覧で大賞をいただき、私の彫刻は平塚市庁舎の前庭に設置されまし た。移動の際は、解体せずそのまま基礎ごと、早朝に道を通行止めにして移築したと聞きまし た。その折には、方向、位置確認指示のため平塚市庁舎まで出向いたように記憶しています。 平塚に住む知人に前を通るたびに見ていると言われ誇らかな気持ちでした。
 設置から 20 年以上経ちました。その間、何度か自分の作った彫刻に会いにきました。作品 は作者の分身です。アルミの腐食が心配で来てみたり、何か構造上の変化は無いか確認にきたり、別の知人にそんな彫刻は無かったと言われて、びっくりしてまた来てみたりしました。そ の時はそこにあって、ホッとしました。市庁舎が新しくなり彫刻はどうなったかと心配になりました。もちろん見に来ましたが、ありませんでした。きっと捨てられてしまったんだと思っ ていました。
 しばらくして、偶然に出会った彫刻家に市庁舎改築のため彫刻を解体して保管してある、と 聞きました。解体したものの、パーツが多くて組み立てかたが解らず困っていると云うことで、 その方に再構築のために 1/3 模型をお見せし遠くから協力しました。その時不思議だったのは、 なぜ初めに私に連絡が無かったのかと云うことでした。何年経っても作者は作品に責任を感じ ています。今回も再構築のみならず、テーマに沿って空間との応呼を考え、より良く表せる設 置場所での位置や向きのことを、立ち会って関わりたかったと思いました。
 これから、ときどき折々に現状をお知らせいただきたく作者の立場としてお願い致します。」


3.「宇部市における市民による彫刻保守活動」 高嶋直人
 2018 年 6 月 17 日に本研究会が共催した平塚市の野外彫刻の保存と活用に関するシンポジウ ム内で、これまで取材を行ってきた山口県宇部市の「うべ彫刻ファン倶楽部」の活動内容を中心に、市内の彫刻をとりまく行政の体制を紹介した。今回は作品が設置された野外展の背景や、具体的な野外作品画像の紹介を加え、研究会の場で再度報告した。

 うべ彫刻ファン倶楽部は、当時野外作品の劣化が目立っていたことから作品の保全を目的に 2007 年に組織され、市内約 200 点にわたる野外作品のなかから 30 点程度の作品を対象に、学芸員指導の彫刻清掃を 1 年に 2 度の頻度で継続している。今回の取材では悪天候のため、清掃 に参加することがかなわなかったが、各市民グループや担当学芸員からの聞き取りから、参加者は年齢問わず各回 200 名程度が集まり、用具を揃え、のぼり旗を掲げながらの大掛かりな活 動であることがわかった。市内に設置されている多数の野外作品は、おもに 1961 年以降開催 されてきた「現代日本彫刻展」の入賞作品であり、50 年におよぶ時代のなかの彫刻作品を市民 が清掃、メンテナンスを行うことが出来るのは宇部市だけだろう。参加者はそれらを自身の財産という認識で直に触れて清掃することで、作品に親しんでいるという。また、宇部市と市民活動、作家間での体制について触れたが、うべ彫刻ファン倶楽部が独立して活動をしているわけではなく、学芸員が清掃に参加するだけではなく各作家との連絡を通して清掃マニュアルを 作成しているなど、市民活動との具体的な連携体制をもつことは特筆したい。
 様々な人や組織が関わりを持つ屋外彫刻は、当然それぞれの地域ごとに管理の方法も異なり、ましてや 1993 年単年の開催である「湘南ひらつか野外彫刻展」と2 年ごとの開催である宇部市の「現代日本彫刻展」の野外作 品管理の比較となると簡単には参考されない。しかし、うべ彫刻ファン倶楽部のような既存の市民活動の内容や成果、参加者のことばが、多地域の市民や行政が、連携して彫刻を財産と思う意識を揺り動かすことは出来るはずである。

仙台昭忠碑見学会・研究会 2017年11月12日 宮城縣護国神社本丸会館

 2017 年11 月12 日(日曜日)、11 時から仙台昭忠碑銅標《金鵄》の見学会、13 時30分から宮城縣護国神社の本丸会館で研究例会が行われました。本研究会員とその関係者19名の他、地元からは護国神社・青葉城資料展示館関係者、石塔の修復を担当した金福建設関係者、仙台市彫刻のあるまちづくり応援隊の市民の方々が参加しました。
 見学会では、石塔正面の基壇上に再設置された作品を前にして、修復を担当した高橋裕二さんと佐藤紀昭さんから、修復と再設置における作業の概要について説明がありました。
 また、複数の地元報道関係者からの取材がありました。

見学会での高橋裕二さん解説

 研究会では、藤嶋俊會会長の挨拶の後、彫刻のあるまちづくり応援隊の村上道子さんから《金鵄》を石塔の基壇上に再設置するまでの経緯が述べられました。次に高橋裕二さんがブロンズ製《金鵄》の修復から再設置にいたる作業の概要について、佐藤紀昭さんが石塔の修復作業とその過程で判明した構造の概要について発表しました。二人の発表に冠する質疑応答の後、最後に村上道子さんの司会で総合討論を行い、東日本震災で被災した昭忠碑についてその修復の意義が話し合われました。

「仙台昭忠碑」鵄部の修復を終えて 髙橋 裕二(ブロンズスタジオ)
「仙台昭忠碑」鵄部の修復と設置が終わり、すでに一年を優に超しているが、あまりに 強烈な仕事であったためか、その後の幾つかの大きな仕事も、ただ淡々と過ぎていくような気がするこの頃である。「仙台昭忠碑」修復ではたくさんのことを考えさせられた。明治の作家たちが「彫刻」をつくる-ことを考えること。「モニュメント・記念碑」を作ることを考えること。文化財としての対象を保存修復するということについて。美術鋳造ということを考える-こと。(それは工業鋳造と美術鋳造の比較をも含んでいる。)また、別の視点として、油画を中心とした近現代作品の保存修復と、彫刻、とりわけブロンズ作品の保存修復との決定的な差異についてのこと、などである。
 油画を中心とした保存修復の原則として、リバーシビリティは欠かせない大切なことである。しかし彫刻について視点を変えると、この原則は往々にして付加的な原則として取り扱わざるを得ない。溶接や化学的着色、使用地金の変更などなど、こと「鵄」に関しては強度と安全性を重視し、視覚的な回復までも求めるためには、原則からは逸脱した修復であったと認めざるを得ない。しかし今回の修復を実施するにあたって、一番重要視したことは明治の作家たちの先進的な表現の自由さ、そしてそれを実現させる時代的な背景を追体験することによって、私たちがかつて遠くからでしか見ることのできなかった「鵄」像を、再現していく大変スリリングなプロジェクトであると確信するに至ったことである。
 この仕事はその確信から、彼ら(=明治の作家たちと鋳造家)を復活させ、そしてそれを支え、現実化する保存修復の事業である という姿勢を崩さずにすすめることを約束させた。

昭忠碑の修復 佐藤 紀昭(金福建設)
 2014年春に、昭忠碑の金鶏落下に伴う石段・基壇等の修復工事のお話を頂き、現場調査をした際に石塔の切裂及び段石の移動、第3層石材部笠石の移動、基礎縁石並びに石柱の移動が西側に集中しており、又石塔の西側の鋳銅部材の使用が見うけられない位置での緑青の流出した跡等が見られ塔内の構造等が不明であるとのお話で2013年発行の屋外彫刻調査保存研究会会報第5号を拝読させて頂いた上でも、煉瓦等の使用数量も合わず、外観よりの推測する以外になく、石塔の構造を解明するには、ボーリング調査が必要になり3箇所を調査することにする。NO.1は石塔上部乙鋳銅部西側、NO.2は第3層石材部上部左側、NO.3は基壇正面の石塔中心と石段中心を結ぶ線上の基台設置位置とする。
 
石段・基壇・基壇笠石・石柱について
 石段・基壇・基壇第1層間知石積等には、基礎砕石等の使用痕跡は見られなかった。又石段袖石の高さが左右で親柱との取付け位置が異っており、今回同じ位置で修復する。尚、石段・基壇の基礎部には砕石C-40を使用した。第1層間知石積みには裏込め砕石等は見受けられず、当時は埋戻材等を使用したものと思われ長い年月の間に流出したと思われる。
 今回は可能なかぎり基壇の取り壊したコンクリート片を充填した。又、石柱間の鉄パイプは取付孔に方尖形鉄材上部にナットを取り付け、パイプ、取り付け材共、鉛で固定されていた。今回これらを削孔し除去後、亜鉛引鋼管φ32mmをボンド・モルタルで取り付けシルバー仕上げする。尚、段石・縁石・石柱等はSUSの固定金具で連結することにした。
 段石の基礎コンクリートには溶接金網φ6×150×150を使用し施工する。

石段 段石撤去 レンガ状況
石塔の内部空間(頂部)

基壇段石について
 第2層石材部段石は西側の段石を撤去した段階で第3層間知石積下部の状態及び第2層段石部下部の煉瓦の寸法・状態・構造等も確認することが出来た。煉瓦の寸法は105mm×210mm×55mmであった。段石は煉瓦の保護と第3層問知石積の保護も兼ねていたものと思われる。今回段石撤去後に煉瓦欠損部は敷きモルタルでカバーし、段石裏側より流しモルタルで充填した。最下部の段石保護コンクリートは、段石の抜け出し防止用の押え保護コンクリートであった。

第3層石材部(間知石積~笠石)
 第3層石材部(間知石積)の下部は、石の大塊を投入した空隙の多くみられるコンクリートで、層厚300mmで出現された。最上部縁石の移動及び木根による間知石との剥離、上部張り石の目地離れ、聞知石合端の開きが見られるが、間知石の抜け出し等は見られない。縁石は一度撤去して、既存モルタル及び木根を処理し除草剤を散布し、モルタルを敷き均し再設置する。上部張り石の目地にカッターを入れ、流し目地モルタルを充填する。間知石合端の開きが見られる箇所は着色モルタル充填目地で仕上げる。

石塔部クラック補修等について
 石塔部のクラック箇所は清掃し、ケレン作業後にエポキシ樹脂を注入した後に着色モルタルで表面処理し、石材面との違和感をなく仕上げる。又、第7層石材部方尖形部分の目地がすべて欠損しており、残存モルタルを撤去し、新たに目地モルタル充填する。

ボーリング調査より判明されたこと
 石塔は建築雑誌などから煉瓦積み構造とわかっていたが、積み方は不明であった。被災後、塔頂部よりのボーリングで基礎部厚さ(基礎栗石層2,050mm、基礎コンクリート厚 1,200mm、煉瓦基礎厚1,300mm)が判明し、基礎段石修復時に幅8,685mmも判明した。段石部の煉瓦は、石塔煉瓦下部の補強もかねていたものと思われる。塔頂部のボーリング孔よりファイバースコープの観察結果より、塔内に人工的空間構造が確認され、この調査孔を利用し小型カメラを挿入し内部を調査したところ、石塔内は空洞で、空間は四角形で四面が壁で構成される部屋のような構造だと推定される。煉瓦積みは上部でアーチ型になり、段を設けて積んでいることが判明した。中空にすることで震動に耐える構造となり、それが今回の大震災にあっても、大きく破損することがなかった理由の一つと思われる。又背面の基壇段石中央の下に水抜き穴と思われる穴が見つかり、内部の水滴を中央に集めて流出させる構造となっていた。又、第7層石材部方尖形部分の目地が欠損していたのは、金鶏を固定していた埋込レールが丁度の位置(塔頂部より1,900mm)になる。尚煉瓦の寸法にモルタル厚10mmとし、各寸法に5mm加算して算出した煉瓦使用数量は161,234枚となった。

削孔
鋼管建て込み

基台設置について
 修復後の金鴫は、石塔上部に再設置は当初より無理と判断し、石塔正面基壇上に台座を設け設置することにする。NO.3調査ボーリングの結果より、地質は会報第5号とは異なり、良好とは言えないまでも杭の根入長・杭の種別でカバーし、鋼管杭は圧力配管用炭素鋼鋼管φ400mm(スケジュール80)L=5,500mmを使用、削孔径φ560mm、削孔長4,300mmとし、鋼管底部・鋼管内外を生コンクリート18-8-40を投入し固定する。尚鋼管内部中心に、芯材として等辺山形鋼50×50×6長さ6,000mmを挿入する。台座は鉄筋コンクリートで外側及び天端は白御影石厚100mm石張り仕上げ(側面割肌・天端ビシャン仕上げ)とし、仕上り高は基壇上より高さ700mmとする。

第17回総会・研究会 2017年7月15日 武蔵野美術大学鷹の台校舎

見学会・研究会 2017年3月11日 小平市立平櫛田中彫刻美術館・武蔵野美術大学鷹の台校舎

研究例会 2016年12月4日 平塚市美術館

第16回総会・研究会 2016年7月17日 武蔵野美術大学鷹の台校舎

シンポジウム「パブリックアートの展開と可能性 ~パブリックアートの展開と現状を踏まえ、その可能性を探る~」 2016年3月19日 新宿センタービル9F

札幌研究会「シンポジウム2015 野外彫刻を創る・守る」 2015年10月4日 北海道立近代美術館

第15回総会・研究会 2015年7月19日 武蔵野美術大学鷹の台校舎

見学会・講演会・研究例会 2014年11月15日 小平市立平櫛田中美術館・武蔵野美術大学鷹の台校舎

第14回総会・研究会 2014年7月27日 武蔵野美術大学鷹の台校舎

研究例会 2013年11月24日 武蔵野美術大学鷹の台校舎

第13回総会・研究会 2013年7月27日 武蔵野美術大学鷹の台校舎

研究例会 2012年7月28日 武蔵野美術大学鷹の台校舎

内 容
1.仙台《昭忠碑》の保存をめぐって(第三回目)

2010年1月20日撮影(提供:ブロンズスタジオ)

①《昭忠碑》のその後の状況について 村上道子
 はじめにこれまでの経緯が述べられた後、「提言」提出後の《昭忠碑》保存に向けた動きについて、現時点ではほとんど進展が見られないとの報告がありました。平成26年度に仙台市による「青葉城大広間整備工事」が開始されるので、この事業との関連で状況の展開が期待できるとのことでした。
(*その後11月9日に村上氏から、「神社の大澤さんは、今週と来週17日まで欧州出張とのことで、英霊顕彰館の伊藤さんによると、大澤さんの帰国後、文化財課と打ち合わせる機会を設け、提言に基づいて仙台市と話し合う予定とのことでした。」との報告がありました。)
②文化財を中心とした材料分析概要と《昭忠碑》の分析結果について 権上かおる
 定量と定性、有機物と無機物の分析など分析科学の基本とブロンズ表面に形成される腐食生成物(錆)ついて分かりやすく解説しながら、《昭忠碑》のX線分析の結果が報告されました。本体から採取された3試料の金属成分は鉛6~11%を含む銅・スズ・亜鉛の合金であること。本体内部のつめもの(鋳掛け材)試料3点は2試料が鉛を主成分としていること。そのほか型持ち、ボルト、座金の金属成分についても興味深い報告がありました。表面生成物について、金属の腐食生成物(錆)は本体が塩基性硫酸銅のブロカンタイトとアントレライト、硫酸鉛のアングレサイトでしたが、正面銘板からは塩基性炭酸銅のマラカイトが検出されました。暴露された金属表面でのマラカイトは初めてで貴重な事例となりました。

2012年6月26日撮影 正面銘板からのさび試料採取

③《昭忠碑》レールについて-歴史と工学的解説- 高橋正則
 施工資材・工法の粋を極めた当時の土木・建築技術の集大成とも言える石柱部の仕様について、建築雑誌第184号(明治35年)の掲載記事から解説されました。金鵄支柱内部に使用されたBARROW社の刻印がある鉄材レールについて、これはBARROW STEELが1880年代に製造していた貴重な古レールであること。岩手大学の小野寺英輝氏の分析に基づいて、これは錬鉄であり、採寸数値に消耗が認められることから実際に鉄道で使用されていたものが転用されたことなどが述べられました。石柱に於ける鉄材の役割がコンクリートとの関係で解説され、記事に記載された重量から計算すると支柱内部に10mレール14.3本使用されていることが示されました。また他のレール規格と比較し、レールの歴史が述べられました。
(*研究会で配付した発表資料とパワーポイントでのプレゼ画像では、143本になっていましたが、その後、高橋正則さんから訂正がありました。)

2012年6月2日撮影
2012年6月2日撮影

2.滋賀県内の屋外彫刻 調査 飯坂陽治
発表者がこれまで調査した埼玉県と地政学的な類似性を有する(南西部に工業地帯が位置する)滋賀県内の屋外彫刻について調査を行い、市町村別所在および種類別、設置年代および状態評価別にこれらをまとめ、埼玉県と比較してその結果を報告するとともに、多くの作品事例の画像が紹介されました。滋賀県では安土桃山時代の武将の人物像が多いこと。琵琶湖にそそぐ河川の橋を彫刻でアピールしていること。草津市が昭和63年から「街角・ほっと事業」として30あまりの彫刻を市内に設置したこと。劣化した作品の割合は滋賀と埼玉とも60%で同じであるが、1980年代以前に設置された作品は埼玉より滋賀の方が劣化したものの割合が大きく、2000年代は少ないこと、両県の降水量・酸性度の比較において有意差は見られなかったこと。―などが報告されました。

甲南大橋/夏の風
浅井長政・お市 長浜市

3.中村直人展について 迫内祐司
小杉放菴記念日光美術館で開催された「中村直人 彫刻の時代」展(7月21日~9月9日、その後に佐久市立美術館に巡回。11月18日まで)について報告されました。直人は吉田白嶺に師事する以前、放菴に入門したこと。佐久展では墨を使った《北京の女》など2点の絵画作品が追加されたこと。また展覧会に出品されていない聖ミカエル教会(出身地の上田にある)の装飾・キリスト像・マリア像などが紹介され、農民美術運動との関係が述べられました。日中戦争に従軍した彫刻家5名(中村・日名子実三・横江嘉純・一色五郎・清水多嘉示・吉田三郎)はいずれも絵を描ける人であったこと。真珠湾奇襲攻撃の《九軍神》を制作し世間の注目を集めたこと。作戦記録彫塑が昭和18年に1回だけ行われ中村・横江・辻晉堂(当時中村と比べられていた)が参加したこと。中村も参加して制作した軍需美術推進隊の作品が夕張や常磐に現存すること。東京駅前に「祈りの像」を作った横江嘉純のサインの脇にある「陽」の字は夭折した息子の名前であること。―などが述べられました。

第12回総会・研究会  2012年7月28日 武蔵野美術大学鷹の台校舎

内  容 

1.「調査の概要、ブロンズ部の現状について」 黒川弘毅

 “提言”に記されたブロンズ部の状態について説明し、今回の被災状態は昭和11年11月の地震による被災状態を増幅的に反復していることが考察されました。また、東京芸術大学鋳金科の橋本明夫氏とともに観察した鋳掛け接合の構造等が報告されました。

2.「石塔の現状について」 大野春夫

 詳細な施工方法を記した建設当時の文献(『建築雑誌』184号 M.35.5.25発行 等)を参照しながら石塔部の状態について説明し、表面の花崗岩の接合に鉄製のダボが用いられており、これの腐食膨張による亀裂発生の可能性について考察されました。

3.「建築遺構から見た《昭忠碑》」  高橋正則

 「特記仕様書」とも言うべき文献(前出)に記された工法に専門的な検討を加え、震災で目立った被災を免れた石塔の基礎工事とレンガ構造による築造法の強靱さが解説されるとともに、セメント・モルタル、鉄材、ブロンズ等の材料を詳細に検証し、これらとの関連において地震動と破損状況が考察されました。また金鵄に使用された鉛による土壌汚染への留意が述べられました。

4.「慰霊碑の系譜:補遺」 立花義彰

 《浜松戦捷紀念標》に関する昭和以降の文献の誤りを闡明するとともに、移設を被ってもとの文脈とは別物に変質した《豊橋軍人紀念碑》(神武天皇像)、《掛川戦勝観音》を《昭忠碑》との関連で考察し、記念碑がその背景とともに忘れ去られた歴史、無名の戦病没者慰霊の象徴性の喪失が述べられました。

5.「金属材料と表面腐食生成物の化学分析:中間報告」 権上かおる

 金属成分に関しては、合金成分が建設当時の文献に記されている鉛の使用量(全体の9%)に近似していた金鵄本体についてのほか、鋳物内部からの試料(詰めもの・鋳掛け材)、補修に用いられている鑞材、座金、ボルトについて分析結果が報告されました。腐食生成物では銅の硫酸化合物の他に硫酸鉛が測定されたことが報告されました。

6.「ブロンズ製《金鵄》の保存修復について」 高橋裕二

 《昭忠碑》のブロンズの金属組成が久野留之助鋳造による《市川紀元二像》(M.41年)と鉛の含有量においての共通性と、砲兵工廠による鋳造作品の組成との違いを考察し、金鵄設置時の写真に東京から派遣された鋳物職人の一人として平塚駒次郎が写っていること、分鋳部品の現場での鋳掛け接合では甑炉が使用されたことが述べられました。また、鬆や不純物の混入が多い研磨試料、鉛を多量に含む試料の溶接試験の結果が示されました。