2017年3月11日_見学会・研究例会要旨

*見学会・研究会の報告

3月11日(土曜日)11時から、小平市平櫛田中彫刻美術館で開催している「ロダン没後100年ロダンと近代日本彫刻」の見学会を行い、篠崎未来氏(同美術館学芸員・本研究会会員)によるギャラリー・トークがありました。この後、午後2時から武蔵野美術大学で研究会を行いました。会員25名、非会員14名が出席しました。

研究会の内容
テーマ1.仙台昭忠碑銅標《金鵄》東日本震災での落下から再設置まで
①「昭忠碑の修復について-経緯のまとめ」村上道子(彫刻のあるまちづくり応援隊)

 平成22年調査時修復後の鵄平成28年10月、東日本大震災で破損した昭忠碑の鵄が修復され、基壇上に設置された。石塔の安全性を考慮し、塔の上の設置ではないものの、目の前でその姿を見ることができる。平成23・24年度の文化財レスキュー事業に始まり、平成26・27・28年度の被災ミュージアム再興事業に引き継がれた文化庁補助の修復事業が完了し、感慨深いものがある。青葉山公園仙台城本丸跡の昭忠碑は、明治35(1902)年に第二師団関係の日清戦争等戦没者慰霊のため建立された。宮城県知事を会長とする宮城県昭忠会が、東京美術学校に制作を委嘱し、河邊正夫・沼田一雅・桜岡三四郎・津田信夫など精鋭の芸術家による作品であり、石塔上の鵄は、東北地方で最も古い時期に設置された希少で重要なブロンズ作品である。
 仙台市職員であった私と昭忠碑との直接的な関わりは、平成11年2月からで、所有者の宮城縣護國神社に専門家による調査を打診したが、それには及ばないとの返答であった。
 平成21年5月、仙台市は大地震による鵄落下の懸念から安全対策として鵄の落下予想地点にプランターを設置し、神社に対し、鵄の耐震調査をするよう求めたが、予算がないとのことであった。仙台市では市所有ではない鵄を市の予算で調査することができなかった。それで、平成22年10月、彫刻の洗浄とガイドのボランティア「彫刻のあるまちづくり応援隊」が、高所作業車による現況調査を実施し、ブロンズスタジオ・神社・仙台市が立ち合った。鵄の大きさに圧倒され、下からは見えなかった両翼に渡された銅板が当初の設置なのか、片翼が落下したとされる昭和11年の修理なのか不明ながらも、実際に上から見ることができたことで、とりあえずの安心感が生まれたのであった。すぐさまの修理の必要性を判断するだけの材料を得ることはできなかった。この時に撮影された写真が修復時の参考となったのは幸いであった。
 平成23年3月11日、東日本大震災が発生、鵄が落下し、大きく破損した。修復に向けての動きでは、屋外彫刻調査保存研究会による現地見学会・シンポジウム・研究発表会の開催や研究会の提言が大きな役割を果たした。鵄の設置場所についても研究会の検討を参考に平成26年6月、塔上ではなく、基壇上の設置を神社が決定した。
 振り返ると、平成24年1月、ブロンズ破片回収、平成25年2月、鵄を石段前に移設し、覆い屋をかけ、平成26年5月に石段を修復、9月塔上残存ブロンズ部分を取り外して防水工事、石塔壁面調査、保存修復方針を確定、平成27年7月に鵄の接合のため東京に運送、平成28年は、5月から10月まで石塔安全確認のためのボーリング調査、石塔の段石・笠石・石柱・床面修復、設置のための基壇基礎工事、石の基台設置、東京から鵄運送、設置工事と多くの過程があった。困難であった公園占用許可申請や国指定史跡内現状変更許可申請もさることながら、最初の文化財レスキュー事業の申請がすべての始まりで、修復完了につながったのだと思う。これからも貴重な明治期のブロンズ作品である鵄を多くの人々に伝え、昭忠碑を東日本大震災の記憶として後世に語り継いでいきたい。

テーマ2.「ロダン没後100年ロダンと近代日本彫刻」展関連発表
②「1940~50年代における〈近代日本彫刻史〉の形成──ロダンとその系譜のとらえ方」田中修二

 今日の「近代日本彫刻史」の枠組みがいかに形成されたかについて考えたとき、昭和戦前期の動きに注目する必要がある。この時期、明治期からの近代日本美術の流れを振り返る作業が盛んに行なわれ、彫刻では高村光雲の『光雲懐古談』(1929年)や長沼守敬による「現代美術の揺籃時代」(1938年)といった現在でも基礎資料となる文献が発表された。1927(昭和2)年には明治期以降の美術も大きく扱った平凡社版の「世界美術全集」の刊行がはじまり、同年朝日新聞社主催による「明治大正名作展」が東京府美術館で開催された。
 しかしその頃の近代日本彫刻史に関する見方と戦後のそれとの間には、大きなちがいも見られる。「明治大正名作展」では明治前期の彫刻作品も数多く出品され、また荻原守衛に対する高い評価は今日と同様だが、その存在を洋画における青木繁と並べる批評もあり(『日本美術年鑑〔第二年版〕』1927年)、のちの時代とは幾分ニュアンスが異なるように思える。そうした傾向は、1933(昭和8)年に刊行された黒田鵬心編『日本彫刻大鑑』第11巻「明治大正時代」の構成にも見てとれる。
 それに対して戦後に一般的となった、「ロダンの影響を受けた荻原守衛の登場により日本の近代彫刻が始まる」という「近代日本彫刻史」の枠組みは、戦時中あたりから徐々に形作られていったといえよう。1944(昭和19)年に東京美術学校彫刻科の教員が朝倉文夫ら官展系の彫刻家から院展の平櫛田中と石井鶴三に替わり、石井は就任時から荻原の顕彰と研究を進めた。それは昭和初期の郷土史教育の隆盛とともに荻原の郷里の穂高で進められてきた顕彰活動と結びつき、53年刊行の東京藝術大学石井教授研究室編『彫刻家荻原碌山』や、58年の碌山美術館の開館へとつながっていった。
 そうした動向が中村傳三郎、今泉篤男、土方定一といった美術史研究者・美術評論家たちの、戦後における近代彫刻のとらえ方と結ばれていく。東京文化財研究所の中村は戦後いち早く荻原守衛の作品と遺品の調査を行ない、今泉が次長をつとめる国立近代美術館が開館の翌年、1953年(昭和28)に開催した「近代彫塑展─西洋と日本─」では中村の尽力により鋳造された荻原のブロンズ作品が並んだ。土方が副館長として運営を取り仕切った神奈川県立近代美術館は、51年の開館と同時にロダンの弟子である藤川勇造の回顧展を開催し、56年には高村光太郎が没して半年もたたないうちに「高村光太郎・智恵子展覧会」を開くなど、ロダニズムの流れを中心とした近代日本彫刻史という見方を強く打ち出したのだった。
 さらに1950年(昭和25)には平櫛田中により中原悌二郎の作品などロダニズムと院展を中心とする近代日本彫刻のコレクションが東京藝術大学に寄贈され、59年に開館した国立西洋美術館にロダンの作品がまとめてフランスから日本にもたらされたことで、ロダンとその影響を受けた日本の彫刻家たちの作品が最も眼に触れやすい場所に集まることとなった。
 以上のような経過を経て、ロダニズムを出発点とする「近代日本彫刻史」の枠組みが形作られていったということができる。

③「なぜロダンだったのか―セーヴル焼の造形を巡るロダンと周辺の彫刻家から見える差異について」高橋幸次

 職人から芸術家になったのは最良の方法だと回顧するオーギュスト・ロダン((FrançoisAuguste René Rodin, 1840 Paris-1917 Paris)は、当時の官展派や折衷派にはない傑出したセンスと特徴を持っていたがゆえに、19世紀で勝ち残ったし、日本のロダニズムや陶彫にも大きな影響を与えた。その理由と形成過程をロダンの初期装飾仕事(建築装飾ではなく花瓶や壺や置き物の類)の作例と時代の趣味に求めた。要点は、ロダンの言う「肉(lachair)」と「やわらかさ、しなやかさ」である。
 ロダンは「柔らかさ(la morbidesse)」と「しなやかさ(la souplesse)」を重視する。前者はクラデルやロートンが筆録している。肉付けによる「肉の柔らかさ」のことであるが、「コレッジオのモルビデッツア」との言及があるように、これは絵画的な趣味・様式から来ている。後者は、コキヨや「芸術及び芸術家」特別号に記載があり、一般的な意味合いであるが、「生命の動勢の可能性」であり「物の魂」とされる。有用で合理的な「堅い事」が支配的だった当時では会得するのは困難なものとされる。ロダンは「私が生涯かかって探したのはこれである」とも結論付けている。
 こうした趣味は、具体的には、ロダンの装飾仕事において涵養されたと言える。その雇い主であったカリエ=ベルーズ(Albert-Ernest Carrier de Belleuse (dit Carrier-Belleuse), 1824Anizy-le-Château,l’Aisne-1887 Sèvre)【図1】の影響は大きい。ロダンは「カリエ=ベルーズは18世紀の良い血の何かを持っていました」と回想している。それは彼らの合作によってセーヴル磁器製作所で作られた花瓶や壺(パリ、プティ・パレ美術館、ロダン美術館所蔵)にも顕著に見られる【図2,3】。大局的には18世紀フランス的な趣味のものだが、実はそこにはカリエ=ベルーズの革新や新機軸があり、原型制作者として若く才能あるロダンを登用した成功が見られる。同様の過程で制作された、同時代のレアリスムを代表するダルー(Aimé-Jules Dalou(dit Jules Dalou) , 1838 Paris-1902 Paris)の同様のものと比較しても、その差は歴然としている。
 「ロダン以後」として反ロダン、脱ロダンが喧伝された時代(1905年以後)には、こうした趣味やセンスは、総合、構造、建築、抽象、造形性、そしてまさに近代的な価値観である「個性と作品」の海に沈んでしまった。残ったのは別の探求と価値観であったし、それは近代以降の「造形性」と一括りにできるかもしれないが、「肉のやわらかさ、しなやかさ」を嫌った時代以降、彫刻が「作り物」に堕してしまったのではないかという感は否めない。

④「日本のロダン作品(1)マツカタ-インパクト欺瞞されたマツカタ/横領された収集」黒川弘毅

 “ロダン没後100年”はロダン美術館による没後鋳造の歴史である。松方コレクションのブロンズにまつわる史実の検証は、いかがわしい権威付けと虚栄のために、近代日本彫刻の精神史-碌山や光太郎等によるロダンの能動的受容-とは無縁に神格化された《ロダン》を理解する前提となる。ロダン美術館初代館長ベネデットは1920年に《地獄の門》に関して、「松方と美術館のために二つ鋳造してファウンダーズ・モデルを破棄する。松方への感謝の銘文を美術館のブロンズに刻む。」という提案を行った。二つのブロンズの完成前に、松方はフラン下落を配慮して契約額の2倍の代金を分割で支払った。松方幸次郎の関係者たちはそのコレクションの形成について、松方がブロンズ鋳造とそのためのファウンダーズ・モデル(鋳造用原型)作成の資金を提供したこと、一番目のブロンズを自分のコレクションとして得たこと-を証言している。
 1925年に館長がグラップに変わると、ロダン美術館はこれらの約束を反故にし、松方が最後の支払いをした1926年7月以前に《門》第一鋳造のフィラデルフィアへの転売を進めて松方を欺いた。この転売は、ロダン美術館が主張する鋳造コストの上昇にともなう松方からの収入の減損に起因しない。最近の文献では最初のブロンズの完成は1929年であり、実際の鋳造コストと鋳造所への支払時期、そして収支のタイムラグと為替変動を考慮すると、ロダン美術館は松方から莫大な利益を得たことが判明する。
 関東大震災を契機に入国関税が100%となり、松方はその解除を待ちコレクションをロダン美術館に留め置かなければならなかった。ロダン美術館はこのコレクションを商売に利用して、松方のために鋳造された《カレーの市民》を含む主要なブロンズの転売と「入れ替え」の再鋳造を繰り返した。日本に返還されたブロンズは、松方が本来得るべきもののフェイクであると言える。ロダン美術館側は、松方が“鋳造順位に無頓着であった”かのように、「所有者の承認」があったと証拠なく主張しているが、その所業は横領あるいは“すり替え”による詐欺と等しい。
 戦後、松方コレクション返還が決まると、1953年にロダン美術館は《カレーの市民》を新しく鋳造して返還するとして、でたらめな積算内容を付して高額な「鋳造原価」を日本に請求した。その前年、ロダンの鋳造を独占していた鋳造所は主の死去で廃業し、全ファウンダーズ・モデルが遺言により廃棄された。新しい鋳造所でのブロンズ鋳造体制の再構築を迫られていたロダン美術館は、故人の遺品にあった同ブロンズのアメリカ(ハッシュホーン)への売却を素早く工作した上で、日本からその費用を捻出したと推定される。
 1970年代にロダン生前からの方法と異なる最新技術による鋳造が開始されたが、それらのブロンズには疑念が持たれていた。国内では1980年代からロダン美術館の「特約機関」である現代彫刻センターを介して“最新鋳造”が多く現れ、1994年に開設される静岡ロダン館では多量の購入が見込まれていた。1986年にロダン美術館は調査に訪れた西洋美術館学芸員に松方の《門》が第一鋳造であることを証す文書(1920年の鋳造所による請求書-その後ロダン美術館側からこれへの言及は無い)を示した【註】。
 1989年西洋美術館開館30周年展図録で、バルビエは東京の《門》が「1926年に松方がその完成を見た第一鋳造である」との見解を示した。これは“ロダン美術館の公式見解”として日本に通用したが、10年後には「個人的見解」とされた。
 1995年に黒川は《門》のブロンズ4点を比較し、証拠を示して【図】東京が一番目とする見解を否定する論文を発表した。その後、ルーブル美術館の文書が公開され、大屋美那(西洋美術館/元静岡県立美術館学芸員)の働きかけにより“資料的裏付けのある事実”が示された。大屋は松方コレクションを研究し、今世紀に入ってその鋳造問題を明らかにしていったが、2013年6月、パリ滞在中に突然“急性骨髄性白血病”を発病して死亡した。本発表は、大屋の営為を再認識するものでもある。
 【註】この時点で、タンコックは1976年の著書でフィラデルフィアを一番目とし、ローランは1985年の刊行物で東京を三番目の鋳造としていた。⑤「日本のロダン作品

(2)ロダン-インパクト拡散される収集/再構築されるロダン」立花義彰

 静岡県立美術館ロダン館《カレーの市民》静岡県立美術館は1986年の開館。ロダン作《カレーの市民》の購入に際し、パリ・ロダン美術館館長のジャック・ヴィランが、斉藤滋与史知事就任2周年の当日、1988年7月7日に表敬に現れる。ここから、関係者それぞれの思惑を含んだ静岡のロダン館建設の物語が始まる。
 当時静岡県立美術館学芸員であった尾島美那(2013年パリで客死)の「ロダン没後の1920年代以降は、ロダン美術館という組織の巧みな戦略により、作品を広める方向に大きな政治力が働いていたことを忘れてはならない。」(「松方幸次郎が収集したロダン彫刻」『ロダン事典』2005年338頁)」という言葉は、彼女自身が初めての職場で眼にしたものでもあった。
 富士市に拠点を置く大昭和製紙の会長で斉藤知事の実兄である斉藤了英氏は、当時ゴッホ作《ドクトル・ガッシェの肖像》ルノワール作《ムーラン・ド・ラ・ガレットにて》を百億円以上で落札し、世界中を驚かせたコレクターでもあった。斉藤了英氏はまた、政財界に多彩な縁戚関係を持ち、その影響力は、大昭和製紙の工場のあった宮城県や北海道にまで及んでいた。県外への工場集約後の地域貢献として、富士市乃至静岡市内への平山郁夫美術館の建設を提言。この発想と、ロダン作《考える人》の静岡県への1991年の寄贈を関連づける事も可能であろう。
 実は、斉藤了英氏はもう一つの《考える人》[摸刻!]を所有していた。これは富士市に寄贈されて富士市内の公園にある。これはサード・ロダン・インパクトの黄昏であるのか、それとも、1977年と言う制作年を信用するとするならば、ロダン+斉藤インパクトのそもそもの起源に位置づけられるものなのだろうか?
 斉藤了英氏のコレクションは、収集の国際化とバブル経済という事抜きにはありえない。印象派・後期印象派の絵画であったという事は象徴的である。しかしながら、斉藤了英氏が第二の松方たりえたのかと言えば、パブリックミュージアムとプライベート・コレクションの対立項を立てて考察した場合、否としか考えられない。当時の新聞報道等での斉藤了英氏の発言がそれを裏付ける。
 斉藤了英氏のオークション参加は、巨視的に眺めれば、アジア経済,日本・台湾・韓国・中国の経済力の台頭がその背景にある。他方、ジャック・ヴィランは、北京や台北にまで、作品を売り込みに歩いていたが、静岡では好都合な事に、両斉藤氏、美術館館長、学芸部長と、重要人物達のほとんどが、西洋美術館蔵ロダンの、かつての熱心な観客であった。
 1993年、斉藤了英氏の宮城県知事への贈賄疑惑での逮捕、斉藤滋与史知事の辞任、美術館長の退任と、主要な登場人物達が表舞台から去った後の1994年に静岡県立美術館の分館ロダン館は開館した。問題とされるべきは、本来公的コレクションにあるべき戦略的で長期的なビジョンよりも、命短き個人蒐集家的発想が優先され、首長が主導し或は首長らの顔色を窺うかの様な展開になった事にある。
 ジャイアント・インパクトによって、原始地球から月が分離した様にして誕生した、至って異質なロダン館の成り立ちに対し、稿者は批判的にならざるをえない。

報告⑥「青山〈こどもの城〉に設置された水本修二作「関係空間」の移設保存」細井篤
【作品概要】タイトル:関係空間作者:水本修二制作・設置年:1985年9月サイズ:h416×w418×d400cm材料:コールテン鋼(厚さ16mm)

 2016年10月移設後国立総合児童センター〈こどもの城〉は、東京渋谷区の青山通り沿いに1985年11月に開館。公益財団法人児童育成協会が児童の健全な育成を目的として建設し、多数の作品が敷地内に設置された。2012年9月に老朽化などのため閉館が厚生労働省により決定され、2015年2月に閉館。同年4月、児童育成協会より故水本修二氏のご子息匡起(ただき)氏へ「設置作品取り扱い相談」の手紙が届き、学生時代に故人との交流のあった私に相談があった。
 『父は、2013年の10月に他界しました。先日、〈こどもの城〉から父の作品について、次のような連絡がありました。施設は閉館になったので、水本修二の作品を処分したい。ただし、希望があれば、運搬費用等を出すことはできないが、無償で譲ることができる。来月5月に敷地全体が囲いで覆われる。建物等を含めてその後の行く先は不明であるが、特に希望がなければ、作品は廃棄になるだろうとのことでした。私の意向としては、もし出来ればどこかの美術館や公園等に無償で引き取ってもらえれば大変ありがたいのですが、そのようなことは難しいでしょうか。』(匡起氏からのメール抜粋)
 芸術作品を保護するべき行政の義務意識の欠如とぞんざいな扱いに、私は驚きを超えた憤りを感じ、作品の移設保存に向けただちに動き始めた。現場を確認して設置状況を記録し、基礎図面等の資料集め、移設費の見積もりを行った。8月に北見市在住の彫刻家小川研氏が、作者が高校まで過ごした訓子府(くんぬっぷ)町に作品の受け入れ交渉を行った。翌年が『開町120周年』という好機とも重なり町長の快諾・決断を得た。訓子府町と内閣府間の移管交渉を経て、2016年10月28日、展示公開セレモニーと文化芸術講演会・シンポジウムを行い、北海道常呂郡訓子府町レクリエーション公園への設置を完了した。水本匡起氏のメールから移設保存完了までの1年半、私は多くを関係者との連絡や交渉に費やした。
 2012年の閉館方針決定から2015年の閉館までの2年半の間に、作品の維持保存にむけた取り組みを行わず、その必要性の自覚を全く持たない行政及び内閣府の態度にたいし、制作者側からの積極的なアクションの必要性を痛感した。
 今回本作品が無事に移設保存され、新たな空間を獲得できたことは喜ばしく、多くの方々の助言、何よりも訓子府町長はじめ職員の方々の熱意あればこその結果であり、改めて関係者の皆様に心より感謝する。