研究会要旨 2019年3月10日

1.「湘南ひらつか野外彫刻展」設置作品-保存での問題点 (1)保存観察-作品の現状について 黒川弘毅

 本研究会の有志により全作品 20 点に関する調査を行った。保存状態の画像と野外彫刻展の 関連資料を共有データとして以下のサイト(OneDrive)にアップした。 (https://onedrive.live.com/?authkey=%21Am2rtWf8tZhuVZI&id=60A32FC5627786F6%21 105&cid=60A32FC5627786F6)

 ポリエステル樹脂、普通鋼作品における塗料の劣化喪失により作品に生じている発錆や変形。耐候性鋼製作品における接合個所、ステンレス鋼・銅合金との異種金属、石材などの異種素材との接触を含む耐候性鋼の発錆状態-層状さびの形成。これらのダメージに関する作品の具体的な画像を紹介し、権上による次の発表と関連するいくつかの作品について、加速度的に荒廃が進行している現状を報告した。

石材の破断
内部鉄材の発錆とステンレス変形
耐候性鋼、層状さびの膨張
塗膜下での「ミミズ腫れ」、アルミニウムの腐食

(2)屋外彫刻で配慮してほしい材料と構造について 権上かおる

 1 《記憶の風景》破壊原因について
 直接の原因は、次の 3 つの理由が推測される。(1)耐候性鋼が腐食により膨張して、土台石を内側から外側に押し出す力が働きそれによって土台石に引張応力が生じ、割れた。(2)彫刻の横長部材は縦の梁によって固定、組み立てられているが、その下部2 枚の固定にずれを生じ、それを両側から挟み込んでいる土台石に引張応力を生じさせて割った。(3)縦部材によって積み上げられた彫刻はかなり背が高い。また片側にアンバランスな張り出しもある。このアンバラン ス荷重に加えて、風荷重が負荷され、さらに場合によっては地震荷重も出現して土台石に引張応力を生じさせた。石材の引張強度は鋼材のわずか 2%にしか過ぎない。大きい作品は、力学的考察は不可欠である。強度を増すには、大別して次の二つの方法がある。(1)引張応力が生じないような構造とする。このためには引張荷重が負荷されない構成とする。さらに応力集中が生じない形状とする。(2)引張応力が生じる箇所に引張力を負担する強度材を組み込む。鉄筋コンクリートがこれに該当する。しかし、本質の原因は以下と考える。このような大きな彫刻は一つの構造物でもある。構造物は、力学および材料強度の分野の自然の原理が支配する世界でもある。力学的および材料強度についての解析を行って長期の健全性を評価、確認する必要がある。一般論として、材料と劣化、環境について、以下に概観する。
 2 石材について
 石材は、種類により劣化度が異なる。安山岩系は安定、砂岩は脆弱、大理石・石灰岩は、雨 の多い場所には不向き。環境のよい場所は、生物劣化を忘れない
 3 金属材料の注意点
 3-1耐候性鋼 アメリカ生まれは塩分に弱い。いったん錆びれば、錆量は、普通鋼をはるかに上回ることを認識すること。
 3-2腐食の形態異種材料を使用する場合は、要注意(電位差腐食、膨張率の差)。金属材料は端面処理に注意を払う。塗膜で保護した金属材料についても端面部に配慮する。塗膜下腐食は、「ミミズ腫れ」から知る。
 3-3設置環境作品は、青天井で、なるべく大地と直接接しないことが望ましい。

2.秦野市における野外彫刻メンテナンス 篠原 聰

 昨年6月に平塚市美術館にて開催したシンポジウム「岐路に立つ彫刻 湘南ひらつか野外彫刻展の行方」のアンケート結果を報告し、当日の議論を振り返るとともに、秦野市との協働に より昨年 12 月に実施した「彫刻を触る☆体験ツアー」の活動報告を行った。 東海大学の学芸員課程では、2013 年度から博物館との連携による正課外の実践教育プログラムに力を入れている。近年、社会から求められる教育の質が変わりつつあり、学生のうちから地域と触れ合い、関係性を構築することが課題になっている。学生は地域の若者として地域社会を形成する一つの力となり、また地域が若者を育てていく、そんな社会的な実践力を身につ ける学びの場の創出である。そもそも博物館は社会教育を含む生涯学習機関であり、近年では「市民活動のプラットフォーム」としての機能や、課題解決のための「地域における中核拠点」 としての役割が益々重要になると期待されている。そして、連携先や学びの場をハコモノの博物館に限定せずに地域に拓くときに着目したのが“屋外彫刻”である。
 「彫刻を触る☆体験ツアー」は、ユニバーサル・ミュージアム(誰もが楽しめる博物館)の推進にも関与する。2017 年に改正された「文化芸術基本法」は「年齢、障害の有無又は経済的な状況にかかわらず等しく文化芸術の鑑賞等ができる環境の整備」を掲げている。従来の博物 館は暗黙のうちに利用者を「健常者」に限定し、「障害者」を遠ざけてきた。私は広瀬浩二郎 氏(国立民族学博物館・准教授)が主宰するユニバーサル・ミュージアム研究会に参加して、「触る」ことが、目の見える人にとっても新たな気づきや世界観をもたらすことを学んだ。美 術館の所蔵品を直接手で触るのは難しいが、屋外彫刻は、メンテナンス作業に限っていえば、 直接手で「触る」鑑賞が可能である。
 2018 年に改正された文化財保護法は、文化財の保存と活用を両立させることや「これまで価値付けが明確でなかった未指定を含めた文化財をまちづくりに活かしつつ、地域社会総がかり で、その継承に取り組んでいくことが重要」と謳っている。美術館や博物館は数多くの指定文化財を収蔵しているが、それらの活用のあり方について地域住民が関与する機会はほとんどない。他方、様々な事由により設置場所が変わったり、劣化が進み廃棄されてしまったりすることもあるが、指定・未指定に関わらず、屋外彫刻は、人々にとって、「昭和」「平成」と過ぎ ゆく街の記憶やアイデンティティを「いま・ここ」に伝える大切なモノで、平成の時代が幕を閉じようとするいま、これらの芸術作品は、日本各地の地域の日常の情景を伝えるかけがえのない財産となる。所蔵品の公開を前提とする美術館や博物館は、一見、民主主義のシンボルの ようにも見えるが、一旦収蔵されてしまった所蔵品のあり方について地域住民が関与する機会 はほとんどない。他方、屋外は誰にでもひらかれた空間であり、作品は未指定の文化財だからこそ、屋外彫刻のあり方やその未来については、地域住民の声をきき、自治体とともに考え、 行動することが可能である。それは、民主主義を育む機会にもなる。

3.小野田セメントが協賛した戦後日本の野外彫刻展 坂口英伸

 本発表「小野田セメントが協賛した戦後日本の野外彫刻展」では、セメント製造会社である 小野田セメント株式会社(現在の太平洋セメント株式会社)が、異分野ともいえる芸術分野に対し、展覧会協賛者として経済的な芸術支援を行った経緯を辿りながら、1951(昭和 26)年から 1973(昭和 48)年までの展覧会出品作品を紹介した。発表にあたっては、太平洋セメント株式会社に協力を仰ぎ、同社が所蔵する画像資料を紹介した。
 発表の冒頭では、セメント彫刻の基礎的情報を共有するために、セメントが近代日本におい て美術作品(彫刻)に応用される歴史的過程を振り返り、明治 30 年代半ばにセメント彫刻や銅 像の原型として誕生したこと、関東大震災後の鉄筋コンクリートブームが美術界にも波及した こと、戦時下で金属代用品として隆盛を迎えたこと、戦後は小野田セメント株式会社が協賛した野外彫刻展がセメント彫刻の発表の場になったこと、などの事実を確認した。
 本発表の中心としたのは、東京都が主催、小野田セメント株式会社が協賛した野外彫刻展である。この展覧会では、東京都が会場を提供し、小野田セメント株式会社が経済的に援助し、 白色セメント造形美術会が技術的助言を行った。小野田セメント株式会社は、出品作家に対して、作品制作に必要なセメントと大理石を無償で提供し、制作費として 5 万円(当時の金額) を負担するだけでなく、作品の運搬設置費も支払った。つまるところ、小野田セメント株式会社は、野外彫刻展のスポンサーだったのである。
 同社が野外彫刻展を支援した理由は、同社が開発した白色セメントの応用域を拡大するという商業的目的のほかに、戦争によって荒廃した人心を慰撫するという社会的な側面も持ち合わせていた。また、戦後に声高に訴えられた街頭美化運動にも寄与したいという狙いもあったよ うだ。複合的な理由により、小野田セメント株式会社は野外彫刻展のサポートに着手と推測される。野外彫刻展の開催の発端は、東京都による小野田セメント株式会社への提案によるものであった。おおむね都内では、野外彫刻展は「白色セメントによる春の野外創作彫刻展」とい う名称で 4~5 月にかけての春季に開催されたため、春の到来を告げる風物詩として認知されるようになった。
 1950 年代の特徴としては、地方開催が盛んだった点を指摘できる。愛知県・大阪府・奈良県 ・岡山県・福岡県などで野外彫刻展が開催された結果、各地方に在住の作家の創作意欲が刺激されたこと、セメント彫刻の存在が浸透したこと、白色セメントの需要が増したことなどが考えられる。
 1960 年代に入ると、地方開催は激減し、1966(昭和 41)年の大阪府での開催のみとなる。そ して 1960 年代後半には、主会場だった日比谷公園に加えて神代植物公園が加わり、1990 年代末には日米安保闘争の混乱を避ける目的で日比谷公園での開催が見送られ、その代替地として北の丸公園が選定された。
 1970 年代には建築への接近が試みられ、その展覧会名が従来の「白色セメントによる春の野 外創作彫刻展」から「建築とともにある彫刻展」へと改称され、会場は日本建築センター(晴海)へ移った。展覧会コンセプトの変化に伴い出品作の作品傾向も変わり、三次元的な丸彫り 彫刻は姿を消し、建築物になじみやすいレリーフが中心となった。しかしこの建築とのコラボ レーションも 2 度のみで、1973(昭和 48)年で幕を閉じた。
 1951(昭和 26)年から始まったこの野外彫刻展が、20 年以上にわたって継続的に開催され、セメント彫刻および野外彫刻の存在を日本に定着させる原動力となった点をその意義として指摘する。

 最後に、本発表は太平洋セメント株式会社による公式見解ではなく、発表者による個人的な解釈であることを付言しておきたい。

日比谷公園に現存するセメント彫刻 淀井敏夫

《キリンの仔》(1958)

筆者撮影(2017 年)

4.報告、その他
1小平市の用水路整備に伴う設置彫刻群について 高嶋直人

 小平市では、昭和 63 年度から平成 3 年度に渡り小川用水緑道と新堀用水緑道の整備に合わせ 彫刻作品が設置された。これらの作品についてリスト作成やキャプションの設置はされておらず、今回は現状の作品の調査や撮影とともに、設置年や作家名、作品数などのデータのリスト化を行った。
 調査は、小平市に協力を仰ぎ関係資料を整理し、用水の整備に関わる全ての作品を把握する ことから始まった。保管されていた資料により 19 点の作品数を把握できたものの、各作品の設 置場所の記載は資料には無かった。そのため、保管されていた作家のドローイングをもとに用 水付近で直接作品を探したが、結果として1点が未発見のままとなった。
 また保管資料によって,4 年度に渡り設置されてきた彫刻作品は全て武蔵野美術大学彫刻学 科の学生や卒業生が製作したものであったことも判明した。武蔵野美術大学彫刻学科では学生 の野外彫刻展を、第 1 回目の用水整備に当たる昭和 63 年の春に同市主催で開催していた。この野外彫刻展が好評を得たこと、さらに当時の彫刻学科の木内岬主任教授が小平市と大学との交流に理解を示していたことが、用水整備の作品設置に同じく彫刻学科の学生が関わりを持つこ とに影響したことも、資料で判明した。
 作品の保存状態については、特に鉄素材の 2 点の作品に大きく不安を感じた。一つは小池雅 久の《ある日のこと》(写真左)で、斜面に立つ鉄製、板状の作品で、所々に存在する溝に湿 潤な土がたまり、顕著な腐食を起こしている。もう一つの作品は渋谷藤郎の《REDCLOW (赤甲 機)》(写真右)で、塗装が全面的に剥離し、大きく外観を損ねている。
 金属を用いた作品にはそれぞれの要因で破損、倒壊を起こす可能性がある。現状の小平市に 必要なことは、定期的に洗浄などの活動を通して、それらの些細な変化に気づく地元市民の組織があれば良いと感じる。今後は、今回の撮影画像とリストデータを小平市に提出し、各作家 や武蔵野美術大学の学生を巻き込んだ形の保存活用を訴えかけ続けていきたい。 また、報告後の追加の調査により、未発見の作品 1 点のほか、市川平の作品が撤去されていることがわかった。

2国産の大理石を用いた《安田善次郎翁像》のモニュメンタリティについて 保坂航子

 北村四海の作品は,使用された国産石材「寒水」石が価値を高めている。茨城県北部地方産 出の石材であるが同県産出の真壁産真壁石や稲田産稲田石のように広く知れているわけではない。近代化で建築資材の化粧用として明治大正の大理石需要期を経過した後石材の使用目的 が大きく変わったことが影響している。水戸産「寒水」石は岩盤の生成状況から最近の採石で は小さな塊で採石される状況にある。主な製品利用として砕石もしくは炭酸カルシウムとして の他分野使用が主となっている。水戸周辺の各地史跡や記碑にその貴石としての往時を偲ぶ。 茨城県北部は,江戸時代に水戸藩の領土であった。水戸藩は「寒水」石を御用石として採掘して 用いた。水戸市偕楽園の『吐玉泉』の井筒は現在 4 代目で,流水の浸食で 40 年しか存続出来ない。総重量 5t はあろうかという高級国産石材が流水の浸食にさらされて光り輝く井筒の様子 は,何とも勿体ないが満たされた水が神聖な雰囲気を讃える。昭和 40 年発行の『大理石・テ ラゾ 50 年の歩み』(全国石材工業会)の巻末には昭和 28 年当時の会則と共に全国大理石工業会 加入会社,及び個人店が掲載されている。この本は工業的大規模採掘と販売の開始された明治期 以降半世紀に渉る国内の大理石工業の発展史である。これ以前に「大理石」を主体とした工業史が皆無であったことから,石材に特化した歴史編纂史的な資料価値を指摘することができる。 日本国内産大理石の需要は大正年間には,主に岐阜,山口,福岡,徳島から相当の量が採掘された。 国産大理石の転機は,昭和 5 年の国会議事堂建設に伴う大規模採掘である。
 渡仏後に大理石を使用した作品で有名な彫刻家となった四海だが制作する際には自身で山 に出向いて使用石材を探した。「寒水」石の発掘は,大理石需要のピーク以前のことである。時 期としては工部美術学校のラグーザによる教育用教材の中にその端緒がある。工部美術学校旧 蔵資料(角田真弓『工学系研究科建築学専攻所蔵 旧備品台帳(一)旧工部美術学校所蔵資料)教材と して「寒水」石を使用するに当たって調査した際のスナップ写真が残されている。写真原版(硝 子乾版)が残されておらず紙焼きされ台紙に貼り付けして備品番号を台紙部に表記したもので 今から 30 年程前に工学部倉庫から発見されたものである。《安田善次郎翁》は, 財閥の創始者 としてその偉業を称える顕彰で屋外に設置された国内最初期のモニュメントである。

筆者撮影による偕楽園(水戸)『叶玉泉』の井筒