第19回総会・研究会 研究会要旨

1.「“原三渓の美術”展と砂沢ビッキ没後30年展について」

 「原三溪の美術」(7月13日~9月1日:横浜美術館)の連携事業として、原三溪市民研究会によるパネル展示(8月3日~9月1日)が行われること、そして市民研究会の活動が紹介されました。その次に、砂澤ビッキ(前屋彫研会長の柳生不二男と秋山画廊以来の付き合いを持った)の没後30年展と関連イベント-札幌芸術の森美術館「砂澤ビッキ 風」(4月27日~6月30日)、本郷新記念札幌彫刻美術館「砂澤ビッキ 樹」(会期同じ)、札幌市民交流プラザSCARTSスタジオ「砂澤ビッキウィーク」(5月21日~5月25日)-の報告と、ビッキについての講演がなされました。

砂澤ビッキについてのいくつかのメモ 人間はなぜ彫刻を作るのか?―砂澤ビッキの作品が投げかける問い 藤嶋俊會 

○ビッキウィークとアーカイヴ
  砂澤ビッキといえば北海道で生まれ育ったある程度の年齢の人ならば大概、どんな作家でどんな作品を作っていたかは承知のことだろう。しかし本州で生まれ育った若い世代にとっては、作品を見たことも名前を聞いたこともないのではないかと思う。
 2019年の5月私がビッキウィークと名付けられたイベントに参加してみると、あたかも北海道全域にビッキ熱が蔓延しているような盛り上がりを感じた。没後30年、生きていたなら88歳、記念の事業が札幌市内の美術館や文学館、図書館、クリエイティブスタジオ(市民交流プラザ3階)などで開かれた。同じ市民交流プラザ2階の「SCARTS(スカーツ)スタジオ」では、内部の壁に、音威子府に定住して作品を制作する作家の写真を大判で展示しており、会期中いつでも見ることが出来る。またこの会場は「連続トーク」のときは椅子席にしてホールになる。「ビッキウィーク」の間は「関連映像上映」として7本の映像が上映された。つまりここのスタジオは、砂澤ビッキに関するあらゆる情報をアーカイヴとして市民に公開していた。7人のパネリストによる「連続トーク」もその一環で行われたのである。ここではビッキの彫刻が屋外彫刻調査保存研究会にとって問題になるところを取り上げてみよう。
 なお筆者が「ビッキウィーク」の「連続トーク」にパネラーの一員として参加したのは、1989(平成元)年の1月県民ホールギャラリーの3人展の会期中に砂澤ビッキが亡くなったとき企画者として立ち会ったからである。

○「オトイネップタワー物語」

 写真は砂澤ビッキが1980年9月音威子府駅前に建てた「音威子府タワー」である。高さ15メートルのトーテムポールである。雪を被ったタワーを見ると、1985年1月に県民ホールギャラリーで開催した「木の造形」展の作品集荷で雪積の日に行ったとき撮影したようである。その後2回目に行った時(1988)はタワーはなかった。危険な状態になって取り外されたという情報が入っていた。ところでこのタワーの原木の刈り出しから設置までの一部始終を記録したドキュメント映像が残っていたのである。
 そもそものタワー建立の経緯をまとめると、1978(昭和53)年砂澤ビッキ夫妻が音威子府村の廃校になった筬島小学校に引っ越しをすることになったときに、簡単に表札代わりになるものを作ろうとした。ところが話はどんどん発展して、駅前に村の何処からも見えるようなシンボルタワーを作ってほしいという要望が出た。
 少し長いが『砂澤ビッキ 風を彫った彫刻家』(札幌芸術の森美術館偏、マール社、2019.04)から引用する。「ビッキは村のコミュニティにも積極的に参加する、当時としては珍しい作家であった。1980年の《オトイネップタワー》の建立は象徴的だろう。音威子府駅前に立ったこの高さ15メートルにおよぶトーテムポール状の作品は、上から天然記念物のブッポウソウ、キツツキや車輪など鉄道、林業、商工会のシンボルマーク、過去・現在・未来を表わす3本の柱、下に乳牛、馬鈴薯、ビートが表現された。建立式には千人もの人々が集まり、村をあげてのお祭りへと発展した」と記している。当時村には国鉄職員の官舎が相当数あって、その人たちがみんな参加したのである。その時タワーを特別仕立ての台車に寝かせて引いてゆく行列の、その先頭にお洒落なジャケットに着飾ったビッキの得意満面の顔が映っているのを見て思わず、ここに本当の英雄がいるなと感動を覚えた。村のシンボルを村民と作家が一体になって建てようとするところに、人は何故彫刻を作るのかという問いに対する答えが丸ごと見えたように思った。タワーが屋外に設置された木彫であれば、いくら化粧を施しても、いずれ朽ちてゆく運命にあることは分かりきっている。永遠という観念は、自然とともに時間が経過する意味で言えるのであって、時間を止めて永遠を望むのは、自然に反することである。永遠は、アイヌの人にとっては、繰り返す自然の移り変わりの中で感じる観念である。

○「四つの風」を巡って:

 札幌芸術の森美術館の野外に、砂澤ビッキ作の「四つの風」という木彫作品が設置されている。これも正真正銘の木彫である。直系90㎝で高さが5.4mのアカエゾマツの柱が4本、1986年に設置された。この作品の取り扱いについて設置後15年が経過した2001年6月24日、展覧会「樹気―砂澤ビッキ展」が札幌芸術の森美術館で開催するのに合わせて、シンポジウム「砂澤ビッキ作《四つの風》の今後を考える」が開かれた。7月5日の「北海道新聞」は、「美術評論家らパネリスト4人のほか、会場の美術ファンやビッキさんと親交のあった関係者も活発に発言し、ビッキさんが投げ掛けた“難問”をどう解くか、発言を述べ合った」と報じる。その後美術館の方針が決まって、「最終的に当館は、今後も防腐剤の塗布など最低限のメンテナンスに留め、ビッキの望むとおり、作品が倒れてゆくことを受け入れることにした」(梅村尚幸「《四つの風》の保全とカメラシステムの導入―自然と交感し、思索する」『砂澤ビッキ 風を彫った彫刻家』)。つまり作者の意を汲んで、「風雪という鑿」が加わるままに任せることになった。

 私はたまたま3本の柱が倒れた現場をそれぞれ見る機会に立ち会うことが出来た。2010年8月に1本目、2011年7月2本目、2013年7月3本目と見てきたが、やはり最初の倒木現場を見た時の印象が強かった。それは倒れた樹の内部が、まるで動物の内臓のようにどろどろした状態であったからである。樹の外側は硬い皮膚のように見えるのに対してである。したがって樹が倒れる時は、誰も見ていないのだが、大きな音をたててどーんと倒れるのではなく、ぐずぐずと崩れるように倒れたのではないだろうかと想像している。2016年のカメラシステムの導入は、これまでの反省に立って倒壊の瞬間を映像で記録しようという、アーカイヴの精神で考えられたものである。

2.「藤沢における彫刻保守活動について」

 東海大学による地域連携事業の一環として藤沢市で実施された屋外彫刻保守活動について報告され、触覚にもとづくアウトリーチとしてユニバーサル・ミュージアムの実践が述べられました。(写真は『タウンニュース』藤沢版2019年6月14日号より)

彫刻を触る☆体験ツアー:アウトリーチとしての彫刻メンテナンス  篠原聰

2019年6月3日に江の島北緑地広場にて実施した「彫刻を触る☆体験ツアー」(藤沢市の事業名「彫刻ピカピカプロジェクト」)の実践事例と、ユニバーサル・ミュージアムの考え方を導入した新たなアウトリーチとしての彫刻メンテナンスの可能性について報告した。ユニバーサル・ミュージアムは視覚優位・視覚偏重の博物館・美術館の常識を改変する。それゆえ、ユニバーサル・ミュージアム研究は近代と真正面から対決する思想運動ともいえる。
 ミュージアムにおいて、ハコモノのなかで人が来るのを待つのではなく外にでて機能を果たす攻めのアウトリートや、ハコモノまで来たくても来るのが難しい利用弱者に手を差し伸べる務めのアウトリーチの重要性が指摘されて久しい。だが、アウトリーチで活用できる博物館資料はいまだに限定的で、資料としての保存を前提としない「消耗品」扱いの場合が多い。とりわけ美術館が収蔵する資料=作品は、モノ自体が脆弱であったり、市場的価値が高かったりすることもあり、博物館が収蔵する資料や標本などよりも、活用と保存のあり方が厳重に管理される傾向にある。他方、美術館のコレクションと同等のモノでありながらそれ以下の扱いを受けている屋外彫刻は(博物館の資料や標本よりも雑な扱いを受けている場合もあるが)博物館や美術館のコレクション同様、公共の財産であり、みんなの美術である。
 アウトリーチ活動において、美術館の所蔵作品をなかなか自由に使うことができないのであれば、屋外彫刻を活用しよう。学芸員がマンパワー不足で地域の屋外彫刻に目をかけ手をかける時間がないならば、大学が、学生や市民を巻き込み、美術館学芸員と一緒に屋外彫刻のメンテナンス活動をしよう。そうして私たちの活動は始まった。「彫刻を触る☆体験ツアー」は保存(メンテナンス)と活用(鑑賞)を兼ね備えた最強のプログラムである。みんなでミュージアムの外に出よう。そして、疲弊する美術館をミュージアムの外側から地域全体で支え、市民の「手」で、美術館の社会的使命の一端を実現しよう。「彫刻を触る☆体験ツアー」は、与えられる美術ではなく、市民が能動的に関与する下からの突き上げ、地域住民のための美術プログラムである。
 屋外彫刻は、雨が降ろうとも、風が吹こうとも動じず、ただひたすら表情を変えず、いつも「私たち」のそばに居る。触ろうと思えばいつでも触ることができる。観覧無料、触ることも可能で、アクセシビリティも常に保証されている。全国各地の屋外彫刻は、近い将来、ユニバーサル・ミュージアム(誰もが楽しめる博物館/感覚の多様性を尊重する美術館)の立派なコレクションと成り得るだろう。

3.「清水多嘉示資料展と国際カンファレンス、及び昆野恒作品の保存についての報告」

「清水多嘉示資料展-石膏原型の全てと戦後資料(第Ⅲ期)」(5月20日~6月16日:武蔵野美術大学美術館)と関連企画「国際カンファレンス:東アジアにおけるブールデル・インパクト」(6月7日~8日:同美術館ホール)について、及び昆野恒ご遺族から寄せられた作品の美術館寄託に関する情報とアトリエと敷地内屋外での保存状態の画像が報告されました。

清水多嘉示資料展(第Ⅲ期)-構築的彫刻思考の再解釈 黒川弘毅

 清水は生涯にわたる様々な資料(作品・文書・写真・印刷物)を残した。武蔵野美術大学彫刻学科は、2007年から遺族の協力のもとで資料の整理と研究を開始した。11年、「清水多嘉示資料展」を本大学美術館で2回に分けて開催した。第Ⅰ期展は幼年期~滞仏期28年まで、第Ⅱ期展は帰国~45年敗戦まで。今回、その後彫刻家として円熟期を迎えて没するまでの第Ⅲ期戦後資料と、パリで彫刻を学び始めた23年からの全石膏原型を展示した。
 第1展示室には、作品以外にも多岐にわたる戦後資料を展示した(写真上)。留学生を含む生徒たちの動向、私学における専門的美術教育の確立に向けた営為、国際交流を含む清水の広範な社会活動の実像を示した。Ⅰ~Ⅱ期展のアーカイヴ(20年代パリの日本人美術家の動向、日中~太平洋戦争までの「戦争美術」に関する記録を含む)もP.C.で公開した。第2展示室とアトリウムには、石膏を中心とする彫刻約250点を展示した(写真下)。留学先から持ち帰った数量では異例の滞仏作35点は注目を集めた。異なるサイズでの複製と、ポーズのバリエーションについてのスタディーを含む人体石膏群を系統的に展開して、第1展示室の二次資料と照合した。清水の「コンストラクション」=構築的な彫刻思考の再解釈を試み、彫刻研究での石膏の重要性をあらためて痛感した。

 また、関連企画「国際カンファレンス:東アジアにおけるブールデル・インパクト」を開催。日・韓・中・仏・米の研究者が参加した。清水や他の日本人彫刻家のパリ留学の意義と、彼らが学んだブールデルの彫刻思考とその教育実践が検証され、同時期の中国人留学生とブールデルの中国への伝播についても発表された。中国の常玉(サンユ)や清水に学んだ韓国の権鎮圭(クウォン・ジンギュ)を例に、極東地域の近代美術における人体表現が論じられ、さらに彫刻の記念碑性が議論された。
 展示とカンファレンスを通して、清水資料が日本に限らず東アジアの近現代美術史とその周辺領域で新しい研究課題の発見に資するとともに、美術史以外の分野にも豊富な材料を提供することが再認識された。